日米通算200勝をあげ広島カープの優勝に貢献した黒田博樹の男気
黒田博樹投手といえば、広島東洋カープの伝説的な投手で、今年日米通算200勝をあげたことでも話題になりました。
バリバリのメジャーリーガーながら広島に復帰し、25年ぶりのリーグ優勝に貢献するというその働きに感動しているファンも多いでしょう。
この記事では黒田投手がいかに広島にとって偉大な選手であり、またその節々で見せた男気が広島ファンをどれほど勇気づけてくれたのかを書いていきたいと思います。
クライマックスでは無念の結果に
本日行われたクライマックスシリーズ、ファイナルステージのDeNA対広島の一戦では、広島がクライマックスシリーズ制覇に王手をかけていました。先発は黒田博樹ということで、黒田の登板で日本シリーズ進出を決めたいところでしたが、DeNA梶谷らの活躍により、残念ながら敗れてしまいました。
もし勝てていれば劇的な展開だったのですが、ここはDeNAも流石といったところですね。私は広島ファンなので、明日の試合で是非決めてほしいところです。
さて、話を戻して黒田投手のエピソードについて書いていきましょう。
メジャー移籍前の黒田博樹
黒田博樹はもともと才能のある選手ではありませんでした。
父親は元プロ野球選手、母親は元砲丸投げの選手とアスリート家系に生まれましたが、高校時代には名門の上宮高校にあって、粒ぞろいの選手に押されて三番手投手として、公式戦でもほとんど投げたことがない無名の選手でした。
後にメジャーリーグで活躍した時に、騒然とさせたエピソードとしてこのようなものがあります。
黒田の高校時代は今よりもずっと根性論がまかり通っていた時代で、黒田が練習試合で打ち込まれた時に監督から「お前の顔なんて見たくない。ずっと外を走っていろ。」と言われ、なんと朝の6時から夜の10時半まで、16時間半の間延々と走り続けていたのです。
そんな黒田を不憫に思った部員の父兄が黒田投手を家に匿い、黒田の母親に連絡した所、母親は「息子は倒れてもいいから、学校に戻してください」と言って、再び走り続けたそうです。
しかも当時は水を飲んではいけないというしきたりがあり、炎天下でずっと走り続けた黒田は時には水たまりや川の水を飲んでいたこともあるそうです。そのような過酷な環境が黒田博樹という不屈の精神を作ったというのは後にメジャーで活躍した際に語られることになります。
こうした高校生活を送りましたが、野球への情熱は失われず、専修大学に入学すると、そこで頭角を現します。
最速150キロを記録するなど、大学でも指折りの選手に成長した黒田は逆指名で広島カープに入団しました。
1年目から先発ローテーションの一角として即戦力として期待されていましたが、当初は敗戦の方が多く、また好不調の波が激しいこともあって打ち込まれることも目立ちました。
それでも着実に成長を遂げていくと、2001年には初めての二桁勝利を達成します。その後は広島のエースとして毎年のように二桁勝利を収め、2005年には最多勝、2006年には最優秀防御率王のタイトルを獲得し、名実ともに日本を代表するピッチャーに成長しました。
2006年にはFA権を取得したことで、他球団に移籍するのではないかという情報が錯綜します。
広島は金銭的に恵まれた球団ではなく、巨人など金銭面で優遇される球団に移籍することで年俸が倍増することも考えられましたが、黒田は広島のファンの思いを汲んで、残留することを決意してくれました。
この時契約期間中でもメジャー移籍はできるものの、黒田の決意として国内ならば広島以外の移籍はないと名言し、来年も広島で戦うことを表明しました。
このことは広島市民に大きな感動を与え、広島市から「広島市民表彰」を受け取っています。
翌年にも12勝をあげる活躍をしましたが、かねてから希望していたメジャーリーグからのラブコールを受けて、ドジャースへの移籍を決めます。この時「また帰ってくるなら広島でプレイする」というのはリップサービスかと思われていましたが、7年の時を経て本心であることが明らかになります。
メジャーリーグ時代
メジャー1年目から黒田は安定した投球を続け、9勝10敗と黒星が先行してしまいますが、防御率、WHIP(与四球の少なさを表す指標)、クオリティスタートではいずれもリーグ20位に入るなど高い指標を残したことで評価を受けます。
しかし黒田はドジャース時代を通じて毎年安定した成績を残しながら、援護率の低さに泣かされるシーズンが続きます。
2010年、2011年には2桁勝利を達成し、防御率も3.07と素晴らしい成績を残しますが、いずれも黒星先行という結果になってしまいます。援護率はリーグワースト2位を記録するなど不遇さえなければ、20勝近くあげていてもおかしくない成績であり、メジャーからの評価はむしろ高まる一方でした。
またドジャース時代は現在世界ナンバーワン投手と呼び声の高いカーショウと、非常に仲がよく、お互いが尊敬し合う理想的なパートナーとなっていました。
後に黒田はヤンキースに移籍したことで、カーショウと投げ合うことになりますが、お互い相手に負けをつけることを憚るなど本当に信頼しあっていたということがわかる感動的な試合でした。しかも両者ともに無失点で終えたことで、どちらにも負けが付くことがない本当に凄い投げ合いです。
移籍先のヤンキースでも常に後がない1年契約を自ら志願し、それでも全ての年でフル稼働を続け、いつしか現在でも日本人メジャーとしては最高の5年連続二桁勝利を達成しました。
アメリカ紙の報道では、最も優秀な成績を収めた日本人メジャーリーガーとして松井秀喜を上回る2位につけるなど、黒田のメジャー挑戦は間違いなく成功と言えるものでした。
メジャー最終年となった2014年シーズンのオフにはパドレスから1800万ドル(当時のレートで21億円)のオファーがありましたが、黒田はなんとその超高額オファーを断り、古巣の広島に帰ることを決意しました。
これまで日本に帰ってくるメジャーリーガーは、メジャーで不本意な成績を収め解雇されたことで、日本の球団に拾ってもらうことが全てのケースであり、イチローや松井秀喜などメジャーで十分な成績を収めた選手は日本球界に還らないものと思われていただけに、現役バリバリのメジャーリーガーが広島に帰ってくることなど、いくら口では広島愛を語っていてもファンも本気で信じてはいなかったのです。
広島も球団史上最高額の4億円の年俸を提示していましたが、メジャーの21億円には到底及ばない金額で、よもやそのオファーを受けるとは誰も思っておらず、黒田の移籍はメジャー関係者にも大きな衝撃を与えたそうです。
広島復帰、そして優勝
広島に復帰したときには、既に40才を迎えようとしていましたが、これまで大きな怪我もなく登板を続けてきた黒田は、復帰1年目も11勝を上げる活躍をし、黒田健在をアピールしました。
さらに復帰1年目のシーズンを終えた段階で、現在の投手システムでは至難と言われている200勝も視野に入る通算193勝をあげていました。
そして2年目の今年、7月24日に日米通算200勝を達成しました。200勝というと直近では野茂英雄、工藤公康、山本昌といった限りなく息の長い選手しか達成しておらず、もしかしたら今後達成する投手がいないのではないかと言われるくらいに難しい大記録です。
広島はご存知の通り2016年シーズン絶好調で25年ぶりの優勝を果たしました。
黒田にとっては初めてのリーグ優勝で、あの男気の塊である黒田が号泣するほど感極まったシーンでもありました。
泣きながら胴上げされるシーンは、間違いなく広島の球史に残るシーンだと思います。
と同時に黒田にとっては41歳にして迎えたキャリアのピークであり、もう引退してしまうのではないかという切なさも感じました。
もちろんまだシーズンは終わっていないですし、日本シリーズ進出も濃厚ですから、進退を決めるのは早いですが、個人的にはあそこが黒田の終わりを象徴するシーンだったのではないかとも感じてしまいました。
ですからもう少しでも長く見るために、なんとしても日本シリーズに進出し、強敵のパ・リーグ覇者を破って欲しいと思っています。本当のピークはリーグ優勝ではなく、日本一になったときであって欲しいですからね。